学ぶ終活

お墓、葬儀、供養のほんとうの意味

大切な人を亡くした方へのブログ 十村井の体験から

   

こんにちは、十村井満です。

いつもおちゃらけながら、
死のこと弔いのことを明るく真面目に考える十村井ですが、
今日は、大切な人を亡くした方に、
このブログを、いつも以上にまじめに綴ります。

わたくし十村井の体験したこと、考えることを綴るのですが、
私の独りよがりにならずに、グリーフケアのはしくれになれるように、がんばって綴ります。

もしよければ、お付き合いくださいね。

22歳の事件 1年で3度の死別

22歳は男厄年。
そう、十村井が22歳の時のことです、

わたくしは、どうにもこうにもひきこもりでした。
どうやってもうまく人と話せない、社会とコミットできない。
そんな破れない殻に苛立ち、
読書とオナニーと放火の妄想だけで生きている大変危険な男でした。
そんな私に何の前触れもなく、事件が襲い掛かります。

1月に祖父(79歳)
2月に母(52歳)
9月に兄(27歳)

…が亡くなったのですね。
祖父は老衰、母は急性心筋梗塞、兄は自殺です。

わが家は家族みんなが家族を愛しているのに、
どうしても歯車が合わなくて、兄2人は非行に走り
両親は宗教や占いに走り
いつ崩壊してもおかしくないような状態にあったのですが、
このような形で、閉塞感に風穴が開けれられたのです。
なんとも皮肉です。

両親は、家族みんなが正常な状態に戻れるようにと、
仏壇に手を合わし、先祖供養をこれでもかというくらいに励みました。
そんな矢先の、立て続けの家族の死です。
父はとくに落ち込みましたね。
これまでの自分のご先祖様への努力が否定されたようなものですから。

死神は、次に誰を襲う

科学万能時代ですから、
神とか仏とか、地獄とか天国とか、

「んなもんあるわけないじゃん」
07eb46683d89981037de1b55d3ab3240_s

と、思うでしょう。

でもね、いざこうして、理不尽な死が立て続けに起こると、
まじめにそういうものの存在を感じてしまうんです。

私には、曇天の火葬場の煙の向こうに、
牙を剥き、ゆっくり鎌を研ぐ死神の姿が見えました。
本当なんです。
5d43ae76932990a8f7a1e21b2a3d55e5_s

兄とも半分冗談っぽく話しましたよ。

「次はどっちだろうね」

人は、理不尽なこと、自分自身で背負いきれない現実に直面した時に、
自分よりも大きなものにそれを仮託させることで、
自分自身の安定を保つのです。

私には、死神が見えたのです。
こんなに立て続けに不幸が続くなんて、死神の仕業に違いない。
本気で、そう思ってしまうんです。

家族が立て続けに殺されていく。次は誰だ。

遺された家族は、無言のうちに、慄いていました。

30209bb6985d92895140f13a8e683d0f_s

先祖は私で、私は先祖

死神の存在に怯えたのは本当です。
でも、同時になぜか私はこう思ったんですね。

うん。でも、まあ、しょうがない。人はいつかは死ぬのだから

悲しくないと言えばウソだし、葬儀でも涙もわんわんあふれ出たし、
でも、淋しくなかったんですね。

悲しいけれど寂しくない。

この不思議な感覚の理由を、私はもうすでに分かってました。

死んだ家族が、私の中にいてくれている

これはね、観念ではないんです。皮膚感覚なんですよ。
死神が本当なら、この皮膚感覚だって、本当です。

たとえるならば・・・
俗にいう守護霊のような、背中の後ろにいるとか
肩に乗って憑りついているとか
そんなんじゃないんですね。

なんか、毛細血管のすみずみまで、細胞のひだ一枚一枚にまでじわーーーってしみ込んでいる感じ。

この感じが、22歳の時にすでにあった。
祖父が、母が、兄が死んでまもなくしてすでにあったんですね。
だから、哀しいけど、淋しくないんです。
死んだ家族たちは、すでに私の細胞の一部という感じなんです。

この感覚は、34歳のいまもまったく変わらず衰えていません
たとえば、私が何かを話しますよね。
するとね、その声は私の中の死んだ家族たちの声もユニゾンとなって、重層的に響くんです。
いまこうしてPCのキーボードを叩いている私の指先にも、死んだ家族が宿っている。

私が楽しい時は死んだ家族も楽しいし、
私がイライラしているときは、死んだ家族もイライラしている。
こういう、死者と一緒にいる感じが、私を支えてくれているし、
そして、私はとても重要なことに気付いたのですね。

64177737c40687c27903635597f55a6b_s

私という人間を組成しているのは、先祖なんだと。

そして、

先祖供養って、オレがこの命を楽しく全うすれば、これが供養なんじゃないの。

・・・ということです。

死者は、拝む先にいるのではなく、拝む私の中にいるんですね。

そういう悟りが、葬儀後まもなくバババババと、私の中に舞い込んだのです。

生命力を与えてくれる死は、「不幸」なんかじゃない!

当時私はひきこもりでした。
ところが、家族が1人死ぬごとに私は一皮むけたのです。
不思議とひきこもりから脱却できたのですね。
「引きこもってる場合じゃねえな」となったのでしょうか?

覚悟を決めて一歩を踏み出したとかではなく、
本当に自然に、憑りついていたものがコロっと落ちたような。

ちなみに、
22歳の時に3人の家族を亡くしましたが、

24歳の時に父
25歳の時に祖母が亡くなってるので、

私は5年間で5皮剥けたのですね(マジです)。

家族を失うことで生きる力を手に入れるなんて、
皮肉そのものでしかないのですが、
私の場合は、生きる力を頂いた。
これって、人の死は決して不幸の側面だけではないということなんですよ。

世間一般的には身内に死が起きたことを「不幸」と言います。
社会的にはそういう表現でいいかもしれませんが、
私はこの時の経験から、死をポジティブに捉えるように、自然になってました。
とむらいマンなんて名乗ってるのも、そこが原点なのですね。

感覚は、共有されない

ここで書いてきたことって、極めて個人的な感覚の話です。
でも、これって全ての人に等しく共有される感覚ではないんですね。

私は母の死を受け入れることができましたが、
兄は、母の死を悔やんで、半年後に自ら命を絶ちました。
そして2年後、私が24歳の時
父が、自殺しました。

彼らは家族の死、そして避けることのできない孤独感に何を思ったのでしょうか。
私のように死者を受け入れることなどできなかった。
落とし穴の底の暗がりで、じっと孤独を耐え忍び、絶望を恨んでいたのかもしれません。

1人の人間の死の受け止め方は、人によって本当にばらばらです。
血を分けた兄弟ですらそうだったのですから。

一方、私はというと、
そんな兄や父をも私の中に取りこんで、この世の生を一生懸命に生きている。
呑気なもんです。
同じ家族なのに、とっても皮肉です。

だから、私は今日ここでこんなことを綴ってますし、たまにこの話を人にするのですが、
私の方から、この感覚を共有しようとしたり、押し売りしたり、絶対にしません。
ただ、私はそういう経験をしたのだ、ということを伝えるだけ。

これは私個人の感覚でいいのです。
他の人は他の人でいいのです。
家族ですら共有できなかったし、
そんな彼らを、私は守れなかったのですから、
自分の中で、ひっそりと死者を抱きしめていればいい、とばかり思っていました。

「身は父母の遺体なり」と言い切る儒教のすごさ

とにかく私は、死や弔いの現場に生きたい! と強く願い
24歳で葬儀社に入社
28歳で仏壇墓石店に入社
あらゆる文章を書きましたがテーマはいっつも死や弔い。
(『スラムダンク』の井上雄彦さんがバスケしか書けない! 作家の中上健次が熊野しか書けない! と、大好きな作家とおれは同じだぁー! とよく恍惚としてました)
死や弔いをライフワークにすると決めて、現在に至ります。

そして、いろんな宗教民俗学などを勉強していく中で、儒教のこの言葉に出会うんですね。

「身は父母の遺体なり」

儒教と言えば親孝行とか、そういう保守的な、封建的な思想や社会制度を連想しがちです。
もちろんそれは間違っていませんし、それゆえの弊害もあることでしょう。

でも、儒教の根源は、生命の連続性なんですね。

そのための方法論が、たとえば孝行だったりするわけです。
だから、夫婦よりも親子関係が重視される。
現在の日本の葬儀の儀礼は、絶大なる儒教の影響を受けています。

私の身体は父母の遺体なのです。
父母の死の先に、私がいる。
私の死の先に、子がいる。

df3549029cb5ac29c430488cd5e3010a_s

柳田国男の死後観

民俗学では、やっぱり「男は黙って柳田国男」ですよね。
柳田国男との出会いも結構インパクトありました。

柳田国男は、人は死んだら死霊となり、供養されることで祖霊となり、
最終的には神霊、つまり村の氏神になる。
そして子孫のそばにずっといてくれる、という死後観を説きました。
これだって、子孫という存在があってこその、ヒトの氏神化なんですよね。

死者を思い出してくれる主体がいないと、死者は本当に死んでしまうんです。

詳しくは「徹底検証 人は死んだらどこにいくのか!?」をご覧ください。
4da938a8275af2e68dbd9d575574275b_s

松田優作の座右の銘は弔いの本質です

これは、名俳優、松田優作の座右の銘、だそうです。

人間は2度死ぬ。身体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ。

とっても、本質的だと思います。
生命の連続性が、死者を生かし続け、
それが生きる人間の安心につながるのだと思うのですね。

2e83780431843f1a5767aa87474e039b_s

私が家族の死を通じて悟ったことを、
太古の昔の東アジア人はすでに知っていたのです。
そのことが、私をもっと安堵させてくれました。

ああ、俺だけじゃないんだなーと。

古代中国も、古代日本も、先祖祭祀をずっとしてきたのです。
環太平洋地域もそうです。
世界中で散見されるシャーマニズムは、
死者を生活の中に取り込むための儀礼だったわけで、
私は、誰に教わるもなく、私個人の身体の体験として、
死者を私の中に取り込んだのですね。

私は死者を抱きしめていたい

私の中には、死んだ祖父母や両親や兄がいます。
みんな、にぎやかにやってます。

みんなが元気のない私のことを応援してくれたり、
力を与えてくれることもあります。

逆にみんなが私の足を引っ張って、
私がみんなのことを怒鳴ったり罵ったりすることもあります。

死者だからって、あんまり特別なことではなく、
私が妻と子供と接しているように、
私の中では、私の死んだ家族たちと私は、にぎやかによろしくやってるんですね。
5aa80c700fc00be4db442a7542b8e418_s

大事なのは、共にいる感覚。これなんです。

先祖供養って、オレがこの命を楽しく全うすれば、これが供養なんじゃないの。

さっき、私はこう書きましたが、
これにはとても大事な一語が抜けています。

先祖供養って、オレが死者といっしょにいる感覚を持ってこの命を全うすれば、これが供養なんじゃないの。

・・・ということです。

私がこのブログの中で、
たとえば、親子での終活を勧めてみたり、
たとえば、お墓参りを楽しく旅行にしてみるというのは、
そうすることで、死を1人のものにするのではない
みんなで死を考えよう、旅を楽しもう、
そういう共生感がすべてだと思っているからです。

どんなお経を上げようと、どんな神仏に拝もうと、
死者は、この世に生きるあなたが私のことを思い出してくれている。
このことだけで、すでに満足なのだと、十村井は確信しています。

だから、お墓がいるんです。仏壇がいるんです。
小さくてもいいんです。
思い出す、出会える場が、いるんです。
生命の縦軸を、断ち切る世の中ではダメなんです。

十村井は、どんな宗教をも否定しません。
それらは、それを信仰する人がいれば、等しく尊重されるべきです。
ただ、私は、私の中にいる死者を抱きしめていたい。
それだけで、充分満足です。
私が満足、ということは、私の中の死者たちも、満足なのです。

********************

今日もここまで読んでいただき、ありがとうございます。

私は、苦しみながら死んでいった、私の家族たちのために、
彼らを抱きしめながら、とむらいマンとして、この世を精一杯謳歌してやるのです。
その覚悟は、とうの昔から、できていたのです。

 - 供養について